地方発!世界で活躍する会社焦土の中から立ち上がり、
伝統の「広島針」を直接貿易

チューリップ 株式会社[広島県]

広島市西区楠木町4-19-8

代表取締役 原田 耕太郎

TEL. 082-238-1144

URL. http://www.tulip-japan.co.jp

世界シェア50%のレース針

「うちの針は世界ナンバーワンです。品質ならどこにも負けません」

広島市の針メーカー、チューリップの二代目社長、原田耕太郎が力強く語る。同社は手芸用針の国内90%以上のシェアを誇る伝統産業「広島針」の最大手。手芸用のレース針をはじめ、キルト針、かぎ針、ビーズ針、フェルト針など、1000を超えるアイテムを製造・販売している。

他の追随を許さない高い品質は、精密な製法から生まれる。製造工程は約30もあり、1本の針が完成するまでに2週間以上を必要とする。特に時間をかけるのは、丹念に磨き上げる工程だ。約10万本もの針を箱の中に入れて、研磨剤と潤滑油を加え、約80時間にわたってグルグル混ぜ、針同士をこすり合わせる。こうすることによって、針の端に空いた小さな穴の内側まで、滑らかに仕上がるのだという。

近年は手芸用の針作りで培った技術をもとに、新たな分野に進出。スマートフォンなど電子製品の基板の配線を検査する、極めて細い針(プローブ)の開発にも取り組んでいる。最も細い針の直径は、20マイクロメートル(0.02ミリ)というから、技術力の高さに驚かされる。

売り上げの国内・国外比率はほぼ同じで、世界40カ国以上と取り引き。中でもレース針は世界シェア50%に及ぶ主力商品で、イスラム圏などでは女性の内職を支える必需品として人気が高い。「レース細工で名高いトルコの街を歩くと、現地の女性がうちのレース針で編み物をしている光景によく出合うんですよ」と原田は相好を崩す。

海外進出は「広島針」のDNA

チューリップの創業は戦後。長い歴史のある「広島針」の世界では後発に当たる。同社はどのようにして、世界で活躍する業界トップの座に駆け上がったのか。その歩みに触れる前に、「広島針」について紹介しておきたい。

「広島針」は地域で約300年も受け継がれてきた伝統産業だ。広島藩主が下級武士の生活を安定させるため、長崎から伝わった針作りの技術を学ばせ、手内職として針作りを始めさせたのがルーツだという。中国地方は砂鉄の一大産地。針の材料となる鉄は「たたら製鉄」(砂鉄を木炭の燃焼熱で還元する製鉄法)によって大量に製造されていた。

とはいえ、江戸時代における針の有力産地は京都や大阪などで、「広島針」はさほど手広く取り引きされてはいなかった。生産が一気に拡大したのは大正時代。第一次世界大戦の勃発により、ヨーロッパ各国で針の生産が激減し、その特需が日本に回ってきたのだ。

この時、広島の針メーカーはいち早く増産体制を整えてイノベーション。ヨーロッパへの輸出を急増して、一躍、日本を代表する針の生産地に躍り出た。後発のチューリップが海外進出を目指したのも、この「広島針」が持つ先進的なDNAを受け継いでいるからだろう。

創業10年足らずでブランド化へ

第一次世界大戦の特需が終わると、広島の針メーカーは新たな輸出先として中国に着目。ここでもビジネスは成功し、昭和初期には大小合わせて200社ほどの針メーカーが広島にひしめいたという。しかし、原爆によって壊滅……。文字通りの焦土の中から、2〜3年後、ようやく40社ほどの針メーカーが立ち上がった。チューリップもその中の1社だ。

「祖父が戦争中、呉の海軍工廠(こうしょう)におり、機械作りのノウハウがあったんです。まず鉄工所を立ち上げたんですが、針の注文のほうが多くなってきた。そこで、父の代から本格的に針屋になりました」

戦後の復興とともに、「広島針」も輸出を中心に再び栄えるようになった。だが、1970年代以降、急激な円高や中国からの輸入拡大などによって、業界は次第に衰退。現在、「広島県針工業協同組合」に加盟しているメーカーは7社にまで減ってしまった。この厳しい状況のもと、チューリップが生産を拡大し、生き残れたのはなぜか。原田社長に尋ねると、「ブランド化を進めてきたからでしょうね」と明快な答えが返ってきた。

「先代が1955年にチューリップブランドを立ち上げて商標登録しました。70年には当初の株式会社原田製針所から、チューリップ株式会社へと社名の変更もしています。地方の小さな会社が、思い切ったCIを行ったわけです。すごい先見の明があったんだと思います」

先代のブランド化重視の考え方を、原田もしっかり引き継いでいる。自社ブランドを育てるに当たって、最も重要なのは、コンセプトをしっかり意識し、価格を絶対に守ることだという。

「決めた値段を下げるのは絶対にだめ。どこにも負けない、良い品質のものを作り、その上で、誰にでも彼にでも売らないこと。ここがブランディングの一番大事なところです」

ブランド化の対極は下請けに徹することだ。しかし、この方向性だと、どうしても薄利多売は免れない。下請けを中心にしていたメーカーの多くは、激動する時代の波に呑まれて消えていった。

商社を介さず、直接貿易で

チューリップが海外へと積極的に乗り出すようになったのは1979年。JETRO(当時は日本貿易振興会)の動きに乗って、フランクフルトの展示会に出展したのが皮切りだった。

この出展には、入社3年目の原田も同行した。原田は当時、「工場をJIS認証にせよ」という重要なミッションを与えられており、各地で開催される品質管理の講習会を飛び回っていた。そうした中、先代社長からいきなり、「フランクフルトに行くぞ」といわれて驚いたという。これが原田の海外初出陣になった。以降、チューリップは海外展示会への出展を増やしていく。

海外との取り引きでは商社を介在させず、直接貿易にこだわるのがチューリップのやり方。これはブランド化とリンクする重要なポイントだ。商社は価格について厳しく交渉する。言いなりになると、肝心かなめのブランド力が揺らいでしまうのだ。

また、海外でビジネスをするコツとして、ユーザー対象の「コンシューマーショー」と、バイヤー対象の「トレードショー」の両方に出展することも重要だという。

「まず、ユーザーと話して現場の情報を仕入れる。そして、その情報をバイヤーとの商談の材料にするわけです。彼らは何かと理由をつけて、安くしろといってくる。確かな情報をもとにいい返さんと、なかなか商談にはならん。若い人には無理ですね。私も20年ほどかかりました」

原田が海外との取り引きに携わって約35年。これからも伸びる余地がまだまだ大いにある、と考えている。売るための基本は、あくまでも商品力、ブランド力。「自分らで考えて、開発して、自分らで売る。これがうちのやり方。今後も変わることはありません」と原田は語る。焦土の中から立ち上がった広島ブランドが、これからも世界に向けて発信される。 (敬称略)


▲世界で愛用されているチューリップブランドの手芸用針


▲社内の女性が開発するオシャレなデザインも魅力